四聖剣外伝「薬師の噂」





その昔、将軍により直々に選び出された武士たちがいた。
町の警護を表向きの任務としながら、その実何事にもとらわれず厄介ごとを解決する剣客集団。
人は彼らを御庭番衆と呼んだ。


 憂鬱そうな顔をして青毛の犬ヒトが往来を歩いていた。
のどかな昼の午後、空には数羽の鳥が飛び交っている。
通りの向こうでは子供たちが笑いながら地面に絵を描いていた。
朝の光が暖かくあたりを包みこみ、暖かな陽気が春の訪れを感じさせる。
そんな中で一人暗い顔をしているその男こそ、御庭番衆副頭の羽州真之介である。
真之介が暗い顔をしている理由はただ一つ。
これから顔をあわせる相手が真之介の一番苦手な相手だからである。
 やがて見えてきた茶屋の床几に小さな狸が腰掛けているのが見えた。
その姿をみて真之介は大きくため息をつく。
のんびりと一人で茶を飲むその狸は真之介に気づくと手を振って見せた。
一瞬気づかなかった振りをしようかと思ったが、呼び出された以上そういうわけにもいかない。
しょうがなく真之介は狸の元に歩み寄った。
「おう真之介、元気そうじゃの。」
 狸が歩み寄り、そっと真之介の尻を撫でた。
真之介はすばやくその手を叩き落す。
狸が不満そうな顔をして見せた。
ただの助平爺に見えるこの狸は、侠客集団「牙武者」の編方で名を瓶木屋三太夫という。
なぜか男女問わず尻を撫でることを趣味としており、特に真之介は顔をあわせれば必ずといっていいほど撫でられ
ていた。
「用とは何です。」
 床几に腰掛けてぶっきらぼうに言い放つ。
座っていれば三太夫に尻を撫でられることもない。
三太夫は不満そうな顔のまま、床几に飛び乗った。
妙に寄り添ってくる三太夫を、真之介は無言で押しやる。
三太夫は非難するような目で真之介を見上げた。
「たまの逢引なんじゃから…。」
 三太夫の言葉に真之介は無言で立ち上がった。
くだらないことを言うだけなら帰る、という意思表示である。
慌てて三太夫が真之介の着物の裾をつかんだ。
「冗談じゃよ、冗談。
まったく、少しくらい老人に優しくしたって罰は当たらんぞ…。」
 ぶつぶつとつぶやきながら三太夫は懐をあさった。
いくつかに折りたたんだ紙を引っ張り出し、それを真之介に投げてよこす。
不思議に思いながらそれを開いてみる。
そこには沢山の名前が、円状に連なって書かれていた。
「これは、傘連判か?」
 真之介の問いに三太夫が頷く。
名前のうちのいくつかは、上から墨で大きく×印をつけられていた。
「印がついとらんのが『烏天狗』の残党じゃ。」
 『烏天狗』は以前謀反を企んでいたごろつきの集団である。
人数を集め、武力をつけてきたために真之介をはじめとした御庭番衆達と、
たまたまその場にいた「牙武者」の面子によってつい先日その大半がお縄になったばかりである。
その残党を…というか構成員全員が乗っている傘連番をどこから手に入れてきたのか。
おそらく尋ねてもいつもどおり適当にはぐらかされるだけだろう。
あえて真之介はその部分を問おうとは思わなかった。
「どこから聞いたか知らんが、『烏天狗』をつぶした張本人がわしら三人じゃと嗅ぎつけたらしい。
徹底的にわしらのこと調べとるようじゃ。」
 そう言って三太夫は手にした茶をすする。
ずずず、と音をたてて茶を飲む姿には全く緊張感がなかった。
「まあわしの事はいくら探られてもなんも出んがな。
真之介と…虎屋じゃのう、問題は…。」
 真之介は考え込む。
彼にしても、三太夫同様少し探られたぐらいでは何も出てこないように手は打ってある。
となれば問題は三人目。
この場にはいない、もう一人の「牙武者」の男。
虎屋次郎右衛門が一番の問題だった。
「まあ虎屋はなんというか…」
「馬鹿じゃからのう。」
 言いにくそうにしている真之介の後を、三太夫が続けた。
もちろん「牙武者」としてある程度過去は消してあるだろうし、三太夫をはじめとする他の面子からの手助けも期
待できるはずである。
それでも。
「心配、だな…。」
 それでも、虎屋の性格を考えればどうしても心配が頭をよぎる。
それだけの性格を彼はしていた。
「うちのことはともかくじゃ。
そっちも気をつけるんじゃぞ。
今は嗅ぎまわっとるのはわしらだけみたいじゃが…特に御庭番の方は他の奴らも狙われる可能性が高いからの。」
 そう言って三太夫が床几から飛び降りる。
真之介は自分の茶を一気に飲み干すと、三太夫に続いて立ち上がった。
「ああ、情報感謝する。」
 そう言って真之介は優しく微笑む。
その言葉を聞いて、三太夫はにやりと笑って見せた。
「ならどうじゃ、この後昼飯にでも付き合わんか。」
 三太夫の誘いというだけで問答無用で断りそうになる真之介だが、さすがに今回は義理がある。
昼食くらいならいいだろうと真之介は苦笑しながら頷いた。






「小三郎。」
 名前を呼ばれて小三郎は振り向いた。
視線の先にいるのは小三郎に比べてずっと大きな熊ヒト。
口元にちょろりと生えた泥鰌髭が愛らしい。
「ほら、手紙だ。」
 そう言って結ばれた紙を小三郎に投げてよこした。
小三郎はとっさにそれを受け止める。
訝しがりながらその紙を開いた。
中にざっと目を通し、不快そうな表情を浮かべてその紙をぐしゃぐしゃと丸める。
「おいおい、いいのか。」
 手紙をよこした熊ヒトが慌てる風もなく尋ねた。
大方、小三郎の対応にも予測がついていたのだろう。
「こんなのわざわざ持ってこなくてもいいんだよ。
余計なことしやがって。」
 そう言って小三郎がそれをぽいと投げ捨てた。
苦笑しながら熊ヒトはそれを拾い上げ懐にしまいこむ。
別にその手紙が必要というわけではないが、廊下にごみを放り出しておくわけにもいかない。
機嫌悪そうに歩く小三郎の後に熊ヒトが続く。
「そう怒るな、手紙なんだからしょうがないだろう。」
 そう言ってなだめる熊ヒトの言葉も小三郎は聞こうとしない。
どうやら手紙一つで完全に拗ねてしまったらしい。
熊ヒトにとって、小三郎がこうやって拗ねて見せるのはそう珍しいことではない。
とはいえ、小三郎も御庭番の参組筆頭である。
普段から誰にでもこのような態度をとっているわけではない。
今回は相手が相手であるから拗ねて見せているだけだろう。
それがわかっている熊ヒトは、大げさにため息をついて足を止めた。
「小三郎、機嫌直して街にでも出んか。」
 それでも小三郎は振り返って拗ねた視線を投げるだけで何も言わない。
相変わらずの表情をみて熊ヒトがにやりと笑って視線をそらした。
「そうかそうか。
最近噂になっとる薬師でも探しにいこうかと思ったが、一人で行くか。」
 とぼけた顔をしながら熊ヒトはその場で踵を返す。
突然どたどたと足音を立てて小三郎が飛びついてきた。
「な、なんだよその噂の薬師って。」
 先ほどまでとはまるで態度の違う小三郎に、熊ヒトがにやりと笑ってみせる。
小三郎は普段から毒や薬の研究をしていた。
内容はともかく噂になっているというだけでその薬師が気になるのだろう。
「さあなあ。
何でも死人でも生き返らせるとかいう話だが。」
 その言葉に小三郎の眉が跳ね上がる。
やはり薬のこととなれば何か思うところがあるらしい。
見れば、完全に先ほどまでの拗ねた表情は消えてなくなってしまっていた。
「まあ行きたくないのならわし一人で行くかな。」
 そう言って熊ヒトが意地悪そうに笑う。
「なんだよ、玄梧がそこまで言うなら手伝ってやらなくもないんだぜ。」
 慌てて小三郎が玄梧と呼ばれた熊ヒトにしがみついて引き止めた。
玄梧は小三郎の見えないところで必死に笑いをこらえる。
あまりにもわかりやすい小三郎の行動が、玄梧にはおかしくて仕方がなかった。
「じゃあ一緒にくるか?」
 その言葉にぱっと小三郎の顔が明るくなった。
同時に、しがみついていた玄梧から離れて廊下を駆け出す。
「じゃあ、じゃあ準備してくるから待ってろよ!」
 走りながら振り返り、そう叫ぶと小三郎は再び廊下を走った。
その後姿を見て玄梧は微笑む。
素直になれない小三郎の憎まれ口が、玄梧にはとてもかわいく思えた。






 往来の真ん中を、大柄な虎ヒトが歩いていく。
彼こそが「牙武者」の虎屋次郎右衛門である。
自ら二番刀を名乗るほどの腕前であるが。
「さあて昼飯も食ったし…晩飯何食うかなあ。」
 周りが心配するほどに間が抜けていた。
今も昼飯を食った直後だというのに頭の中は既に晩飯のことを考えている。
彼は彼なりに悩んでいるのだが、それはどう見てもお気楽な人生だった。
とはいえ彼にそのことを面と向かって指摘するものはいない。
そんなことを直接指摘すれば気の短い虎屋が怒るのは目に見えているからである。
「あ、あの…離してください…。」
 弱々しい声が聞こえた。
虎屋が足を止めて声の下方向を振り返る。
そこには数人のごろつきと、そのごろつきに囲まれた旅人風の女。
どうやらごろつきが強引にその女性に絡んでいるらしい。
周りを見回せば、数人の町人がいるものの皆が見てみぬ振りをしている。
虎屋は無言でごろつきに近寄ると、そのうちの一人の襟首をつかみ地面に転がした。
「うおっ!」
 情けない声をあげてごろつきが倒れこむ。
突然のことに他の男たちも反応ができない。
その間に虎屋は女性の下に歩み寄った。
「ようお譲ちゃん、大丈夫か?」
 そう言って虎屋が歯をむいて笑ってみせる。
女性もあまりに唐突で反応を返せないでいる。
「てめえ、ふざけんな!」
 状況を把握した男の一人が殴りかかってくる。
虎屋は振り返ることもなくその腕をつかみ、問答無用で投げ飛ばした。
先ほど転がした男をつかみあげると、思い切り別の男に投げつける。
「があっ!」
 叫び声をあげて男が吹き飛んだ。
「おらぁっ!」
 虎屋が叫びながら更に別の男を殴り飛ばす。
あっという間に四人の男が倒れる。
残った一人の首根っこをつかみ、虎屋は相手の額に自分のそれを押し付ける。
「こいつら連れて消えろ。」
 腹の底から響くような低い声で虎屋はすごんでみせる。
相手はおびえたように慌てて頷くと、必死で他の男たちの足をつかんで引きずるようにして逃げていった。
後に残されたのはにやにやしながら男たちを見送る虎屋と、それを呆然とみる女性。
虎屋は相手が見えなくなったのを確認して、女性を振り返った。
「大丈夫か?」
 先ほどまでとはうって変わった優しい顔に女性は安堵のため息をつく。
こくりと頷く様子を見て虎屋は安心したように頷いた。
「んじゃあ…」
「ありがとうございまし…あっ?」
 虎屋が立ち去ろうとするとほぼ同時に、女性が声をあげた。
振り返ってみれば女性は慌ててあたりを見回している。
虎屋も釣られるようにあたりを見渡すが、ちらちらとこちらを見ている町人が数人いるだけで特に何も見当たらな
い。
「どうした?」
 不思議そうな顔で虎屋が問いかけた。
はじかれるように女性がこちらを見上げる。
その顔は不安そうな、それでいて悲しそうな。
「私の荷物が…。」
 不安そうに女性がつぶやく。
言われてみれば周囲はおろか、女性の手元にも旅の荷物らしきものはない。
服装は旅支度がしっかりできているものであるから、改めて見れば手ぶらの姿はえらく不恰好だ。
「さっきの奴らか?」
 虎屋が尋ねるが女性はわからない、と首を振った。
先ほどの奴らが盗んでいったのか、それとも騒ぎのどさくさで別の奴らが盗んでいったのか。
虎屋にも女性にもそれを判断する術はなかった。
少し悩んで、虎屋は考えを放棄した。
自分が考えてもしょうがない、と判断できたわけではない。
単に面倒になっただけである。
「俺の知り合いに物知りな奴がいるんだよ。
噂とかも詳しいはずだから、聞いてみようぜ!」
 そう言って虎屋が女性の手を引いて歩き出す。
突然引かれてつんのめるようにして女性が後に続いた。
「あ、あの。
ありがたいんですけど、あまりお世話になるわけには…」
「いいからいいから!
乗りかかった泥舟だろ!」
 泥舟には乗りたくない。
女性は心の底からそう思ったが、なんとか口に出さずにこらえた。
この男には逆らっても無駄だと諦めたのか、女性は素直に後に続く。
「私、りんと申します。」
「俺は次郎右衛門だ。
虎屋次郎右衛門。」
 そう言って虎屋は笑う。
底抜けに明るいその笑顔をみて、おりんは思わず微笑んだ。







 からからと扉が音を立てて閉まる。
後ろ手に戸を閉めて真之介は懐に財布をしまいこんだ。
足元では満腹まで食べた三太夫が満足そうに腹を撫で回している。
丸々と太った三太夫は見ていて爽快なほどよく食べる。
実際その姿を見ているだけで真之介の食べる気が失せるほど、大量に食べていた。
真之介の視線に気づいた三太夫が不思議そうな顔で見上げる。
いや、と小さくつぶやいて真之介は苦笑しながら首を振った。
「おーい、豆だぬきーっ!」
 能天気な声が遠くから聞こえた。
二人で振り返れば一つ向こうの角で虎屋が大きく手を振っている。
その隣には見慣れない、旅人風の女性もたたずんでいた。
三太夫と真之介は思わず顔を見合わせる。
虎屋が女性に声をかける性格とも思えない。
先ほどの「烏天狗」の話もあり、二人はあまりいい予感を感じなかった。
「探したぜ、この野郎。」
 駆け寄ってきた虎屋が三太夫の頭をぐりぐりと撫でる。
三太夫は迷惑そうな顔をするが、長身の虎屋から逃げる術はない。
諦めて撫でられるままに任せていた。
「はじめまして、りんと申します。」
 隣にいた女性が頭を下げる。
真之介と三太夫も順に名乗り頭を下げる。
「こいつがさ、旅の荷物盗まれたらしいんだよ。
三太夫、なんか知ってるだろ。」
 さも当然のように虎屋が三太夫の頭を撫で回しながらいう。
先ほどよりも強くなった手の動きに、三太夫はぐらぐらと体を揺らされていた。
「馬鹿言うな、わしがなんでも知っとると思ったら大間違いじゃ。」
 不満そうに虎屋が手の力を強くする。
おおお、と三太夫は倒れないように必死で抵抗していた。
「どのような荷物なのです?」
 真之介が二人を無視しておりんに声をかけた。
おりんは困ったように空を見上げる。
「そうですね…。
背中に背負うもので…これくらいの…。」
 手で一抱えほどの大きさを示す。
ふむ、と真之介は頷いた。
三太夫も虎屋に頭をつかまれ、がくがくと揺られながら視線をおりんに向けている。
「しょうがないの、心当たりを回ってみるわい。」
 その言葉にようやく虎屋が手を止める。
突然止められて三太夫が姿勢を崩す。
とっさにおりんの腰に三太夫が抱きついた。
「きゃ。」
 小さくおりんが声をあげる。
虎屋が強く拳を握り。
それより早く真之介の拳が三太夫の頭を捕らえた。
そのままの勢いで三太夫が思い切り地面に叩きつけられる。
顔から土をぼろぼろと落としながら三太夫がふらふらと立ち上がる。
「真之介…悋気もいいがもうちょっと優しく…。」
 刀に手をかける姿をみて三太夫が言葉を切った。
髭についた土くれを払い、あさっての方向を見ながら軽く咳払いをする。
「私のほうでも少し当たってみよう。
盗人の話ならこちらにも入ってくるはずだ。」
 真之介の言葉におりんが頭を下げる。
虎屋ががははと声をあげて笑った。
「よし、おりん。
俺らもちょっとそのあたりまわってみようぜ!」
 そう言って虎屋がおりんの手を引いて走り出す。
おりんは慌てることもなくはい、と答えて後に続く。
風のように去っていった二人を、真之介と三太夫が見守っていた。
「ああいうのが好みだったんかのう。」
 三太夫の言葉に真之介は笑いながらさあ、と答えた。
確かにおりんは誰の目から見ても可愛らしい顔をしているし、少し話しただけでも所作から愛らしさを見て取れた

荷物を盗まれたというのに明るい笑顔も見せている。
それが彼女の性格から来るものなのか、虎屋が傍にいるからなのかは二人にはわからない。
「とりあえず戻るか。」
 そう言って立ち去ろうとする真之介の羽織の裾を、三太夫が握った。
何事かと不思議そうな視線を向ける真之介。
「すまんがの、真之介の所のあの若いの貸してくれんか。
なんといったかの、あの刀もっとらん…」
「龍のことか?」
 真之介の言葉に三太夫が大きく頷いた。
「それは構わないが…。」
 三太夫の意図が読めずに真之介が視線で問いかける。
だが三太夫はいつもどおり、にやりと笑うだけだった。






「いねえなあ…。」
 小三郎が不満そうにつぶやいた。
その後ろで玄梧が苦笑している。
二人が薬師を探し出してはや半日が過ぎた。
さすがに小三郎も疲れてきたのだろう。
たまに非難がましい視線で玄梧を見上げてくるが、小三郎が自分から来ると言い出したために正面きって文句を言
ってくることもない。
いっそはっきり言ってくれたほうが気が楽だと、玄梧は内心呟いていた。
「まあ、噂だしなあ。
わしもはっきりと聞いているわけでは…。」
 そこで玄梧が言葉を切った。
小三郎が何事かと立ち止まり玄梧を見上げる。
玄梧はまっすぐに正面を見つめていた。
視線をたどるように往来の先へと向き直る。
「げ。」
 知った顔を見つけて小三郎は思わず呟いた。
小三郎には顔を合わせたくないヒトが二人いる。
一人は狸爺の瓶木屋三太夫。
そしてもう一人。
「コサブじゃねえか、この野郎!」
 うれしそうな声をあげて虎屋が全力で駆け寄ってきた。
とっさに小三郎は玄梧の後ろに隠れる。
そんなことはお構いなしに、虎屋は小三郎の首根っこを捕まえると思い切り引き寄せた。
首を脇に挟み込み、その頭をぐりぐりと拳骨で軽く殴ってみせる。
小三郎はばたばたと暴れてなんとか虎屋の腕から逃げ出した。
「虎次郎、何でこんなとこいんだよ!」
 さも迷惑といった顔で小三郎が叫ぶ。
それでも虎屋は全く意に介さない顔で再び小三郎を捕まえた。
「お前を連れ戻すために決まってるだろー?」
 違う。
もちろん違うのだが、既に虎屋の頭には小三郎のことしかない。
嬉しそうに小三郎を苛める虎屋と、本気で迷惑そうな顔をしている小三郎。
そんな二人を見ていた玄梧がようやくおりんに気がついた。
「おや、お前さんは…?」
 笑顔で虎屋たちを眺めていたおりんが、話しかけられたことに気がついて深々と頭を下げる。
つられた玄梧も思わず頭を下げた。
「はじめまして。
りん、と申します。」
 そういっておりんが微笑んだ。
玄梧もそれに応じるように名乗る。
「ほれ、小三郎も。」
 虎屋に捕まっていた小三郎を引きずり出し、小三郎にも名乗らせる。
小脇に抱えられた小三郎を奪われて、虎屋は不満そうな顔をしていた。
あえて虎屋には話を振らず、玄梧はおりんに向かって口を開いた。
「見かけない顔だが…どうしてまた虎屋と?」
 隣では小三郎もそうだそうだと頷いている。
小三郎からしてみれば、他にもっと道連れがいるだろうといいたそうだ。
「先ほど絡まれていたところを助けていただきまして…。
今も無くなった荷物を一緒に探してくださってるんです。」
 そう言っておりんが嬉しそうな顔で虎屋を見つめた。
虎屋もその視線に気づき、おりんに笑顔を返す。
二人をみて玄梧と小三郎は意外そうな顔を浮かべた。
思わず顔を見合わせる二人。
虎屋とおりんが思いのほかいい雰囲気だからである。
「お前らも暇なら探してみてくれよ。
えーと…」
 虎屋が荷物の説明をしようとして言葉に詰まる。
探し始めた時にも、真之介たちに説明したときにも聞いていたはずであるが。
おりんがその様子を見ながら小さく笑う。
「そうですね、背中に背負う形の物で…一抱えほどの。」
 おりんが手でおおよその大きさを示す。
玄梧がふむふむと頷いた。
「荷物の中は何だよ?」
 小三郎が横から口を挟む。
言葉遣いはとげとげしいが、協力する気はあるらしい。
「ええと、中には薬が…」
「薬?」
 小三郎がさえぎるように聞き返した。
あまりの勢いに思わずおりんは思わず目を白黒させる。
「え、ええ…。
旅をしながら薬を売っていますので…。」
 その言葉に小三郎は玄梧を見上げた。
玄梧もわかっている、というように頷く。
「最近死者も生き返らす凄腕の薬師が流れてきたと聞いたが…。
まさか…?」
 玄梧がおそるおそるといった風に尋ねる。
おりんは一瞬話の内容がつかめずに、ぽかんとした表情を浮かべていた。
ようやく理解したのか、慌てて首をふるおりん。
「ち、違いますよ。
ただの流しの薬売りです。」
 その言葉に小三郎が露骨にがっかりとした表情を見せる。
おりんはその顔をみてすみません、と頭を下げる。
玄梧が小三郎を小突きながら首を振った。
「いやいや、おりんさんが謝ることじゃない。
こちらも荷物を探してみるから、そちらももし何か噂を聞いたら教えてくれ。」
 そういわれておりんがええ、と頷いた。
玄梧もそれに微笑み返す。
「さて、それじゃあ小三郎…」
 振り返ると、虎屋と小三郎がじゃれあっていた。
捕まえようとする虎屋と、必死で逃げ回る小三郎。
大きくため息をついて、玄梧がそれに割り込んだ。
「じゃあわしらはこれで。」
 小三郎を捕まえ、そう言って玄梧はおりんに頭をさげた。
ありがとうございます、とおりんが答えた。
虎屋はその隣で不満そうにしているが、特についてくる気はないらしい。
玄梧は小三郎を連れ、二人に背を向けて歩き出した。
「意外だな。」
 玄梧が前を向いたままつぶやいた。
何がだよ、と小三郎も視線を合わせないまま返す。
「ああいう女性が好みだったんだな。」
 そういわれて小三郎は首をひねった。
確かに仲は良さそうだし、二人の雰囲気もずいぶんいいものだった。
小三郎もそこは認めるところである。
「うーん、でもあの馬鹿そこまで考えてねえんじゃねえかなあ…。」
 小三郎の言葉に玄梧も少し考えてみる。
確かに考えてみればあまり色っぽいものは感じなかったかもしれない。
「でもおりんさんと付き合ったらお前を追いかけるのも少しはましになるんじゃないか。」
 そう言って玄梧が笑う。
小三郎にとって、正直あまり笑い事ではない。
大きなため息をついて、無言で小三郎は歩き続けた。






「さあて。」
 小三郎たちと別れて一刻が過ぎたころ、虎屋がのんびりと歩きながらつぶやいた。
はい、と後に続いていたおりんが答える。
「みつかんねーなー。」
 どうやら街中を歩くことも飽きてきたようだ。
荷物を探すという目的はあるものの、土地勘のないおりんにはどこを探していいかわからないし、
そもそも虎屋は何も考えてはいない。
既に無目的に歩いているといっても過言ではない状態だった。
虎屋の様子にうすうす感づいていたおりんは虎屋を見ながら苦笑する。
笑われた理由がわからずに虎屋が不思議そうに振り向いた。
「先ほど会いました…東間さん。
仲、よろしいんですね。」
 そう言っておりんがほほ笑む。
虎屋の顔が嬉しそうにぱっと輝いた。
仲がいいといわれたことが嬉しかったのだろう。
何度も何度も頷きながら、虎屋が口を開いた。
「あいつ照れ屋だからさあ。
いい加減うちに戻ってくりゃあいいんだけどな。」
 事情を飲み込めていないおりんは戻るといわれてもよくわからない。
首をかしげながら、そのことについて尋ねることにした。
「戻る…といいますと。
昔から御庭番じゃなかったんですか?」
 言われてようやく虎屋は気づいたらしい。
そうだそうだ、とばかりに説明を始めた。
「あいつもともとうちにいたんだけどなあ。
真之介にたぶらかされて出て行っちまったんだよ。
もううちに戻りたいだろうけど照れてるんだろうなあ。」
 そういいながら虎屋がにこにこ笑う。
何も事情をしらないおりんはそうなんですか、と驚いた表情を浮かべた。
もちろん「真之介にたぶらかされた」という部分は完全に虎屋の誤解である。
しかし真之介本人はもちろん、小三郎や玄梧、あげくには三太夫までが説得しているというのに、
いまだに虎屋の中では真之介が小三郎を連れ出した張本人ということになっていた。
最近ではいちいちその間違いを指摘するのも面倒なのか、誰もそのことには触れなくなっている。
「結構街中でも噂になってるんだぜ。」
 得意げに虎屋が胸を張った。
確かに元侠客集団の御庭番衆と言うことで一時期話題にはなった。
しかしその後の小三郎の働きぶりか、特に噂は盛り上がることは無く消えていったはずである。
それでも虎屋の中ではどうも現役の噂であるようだった。
「あー、さっさと帰ってこねえかなあ。」
 空を見上げ、大きく伸びをしながらさも当然のように虎屋がつぶやく。
「戻ってこれない事情とか、あるんじゃないですかねえ。」
 おりんは先ほどから虎屋からしか話を聞いていない。
すっかり彼女も虎屋の話を信じてしまっているようであった。
「とりあえず、今日は出直しませんか。
そろそろ日も暮れてきましたし。」
 そう言っておりんが通りの向こうに目をやった。
虎屋もつられてそちらを見る。
既に日が傾きかけ、西の空がぼんやりと赤く染まり始めていた。
空を見上げながら虎屋も考える。
確かに日が暮れてしまえば探し物も難しくなるだろう。
「そうだなー、続きは明日にするか。」
「すみません、よろしくお願いします。」
 おりんは深々と頭を下げると先に歩き始めた。
既に宿は押さえてあるらしい。
折角だからと、虎屋は宿まで見送ることにした。
娘の宿はそう遠くない。
大通りにでて少し歩けば、暗くなる前にたどり着くことができた。
「んじゃ、また明日迎えにくるから。」
 そう言って虎屋はその場で踵を返すと、手を振りながら歩いていった。
おりんは深々と頭をさげると、虎屋の姿が見えなくなってから宿へと入る。
暖簾をくぐったその瞬間、おりんの耳に聞き覚えのある単語が飛び込んできた。
「ああ、その小三郎だよ。」
 おりんは慌てて宿の外に飛び出し、声の主を探した。
すぐ隣の定食屋に二人連れの男が入っていく。
どうやら先ほどの言葉はこの二人の会話であったようだ。
少し迷った挙句、おりんは二人の後を追って中へと入っていく。
緊張で汗ばんだ手で、店の扉がぴしゃりと閉められた。







 翌朝。
真之介は自室で平和と、硬い麦飯をかみ締めていた。
開け放たれた障子から朝日が差し込む。
必要最低限の家具しかない部屋を、太陽が昇ると共に陽光が満たしていった。
「美味いな…。」
 一人笑いながらつぶやくと、一口で大量に麦飯をほおばった。
硬い歯ごたえを楽しみながらもぐもぐとそれをかみ締める。
真之介は硬めの麦飯に目が無い。
今日も朝餉の当番に頼んで少し硬めに炊いてもらったのだ。
よくかみ締めてからそれを飲み込むと、一緒に出されていた味噌汁を口に含む。
「真さん、虎屋から果たし状だ!」
 叫び声に、真之介は思わず味噌汁を噴出した。
何度か咳き込みながら畳の上にぶちまけられた味噌汁を見る。
「真さん!」
 慌てた玄梧が部屋に飛び込んできた。
涙目になった真之介が恨めしげに玄梧を見上げる。
だが先ほどの言葉が真実なら細かいことを言っている暇はない。
真之介は玄梧が差し出す果たし状を受け取ると急いでそれを開いた。
ざっと中に目を通し。
「…どうした、真さん。」
 思わず真之介は頭を抱えていた。
惨状に気づいた玄梧が飛び散った味噌汁を拭きながら尋ねる。
冷静に説明する自信が無かったのか、真之介は無言でその紙を差し出した。
「これは…。」
 何のことは無い。
いつもどおり「東間小三郎を返せ」という内容だった。
違うのは「おりんから小三郎が戻りたがっているという話を聞いた」という点と、「小三郎をかけて決闘をしろ」
という文章が付随している点である。
「あの子…もうちょっとしっかりした子に見えたんだが…。
小三郎をかけての決闘か…。
真さん、大丈夫か。」
 玄梧が不安そうに呟いた。
その間にも真之介はいつもの羽織に袖を通し、腰に二本を挿す。
果たし状で指定してある刻限はすぐだった。
「ともかく、小三郎を連れて行ってくる。
悪いが玄さんは…三太夫殿を呼んできてくれないか。」
 一瞬名前を出すのに躊躇する。
なるべくなら頼りたくないという表れだろうか。
どちらかといえば顔を見たくないといった感じを受けるが、玄梧にはどちらかわからない。
「わかった。」
 ともかく今は虎屋の暴走を何とかするのが一番だろう。
玄梧が頷いたのを見届けると、真之介は部屋を出る。
「小三郎…。」
 部屋の外には不安そうな顔をした小三郎が立っていた。
外で話を聞いていたのだろう。
申し訳ないような、それでいて何かに怒っているような。
複雑な表情を浮かべて無言のまま真之介を見上げている。
真之介はほほ笑むとその肩を軽く叩いてやった。
「そう心配するな。
なんとかなる。」
 そう言って真之介は歩き出す。
すぐ後を小三郎が続いた。
廊下を歩き、土間で草履を履くとそのまま門をくぐる。
突然尻に違和感を感じた。
「翁…。」
「朝からいい尻じゃのう。」
 真之介と小三郎の尻を両手で撫でながら三太夫が呟いた。
どうやらちょうど門をくぐろうとしていたところに出くわしたらしい。
「この狸爺!」
 小三郎が思い切り三太夫の尻を蹴飛ばした。
「悪いが中にいる玄梧から話を聞いてくれ。
私は先に行く。」
 そう言ってその場に転んでいた三太夫の手をわざと踏みつけて真之介は歩き去った。
小三郎も慌ててその後についていく。
「ほ…?」
 先ほどまで青かった空を、黒い雲がゆっくりと覆い始めていた。
暗くなる空を不安げに見上げながら、三太夫は門をくぐる。
入り口で丁度出かけようとしていた玄梧と顔を合わせた。
「爺さん、突然で悪いがこれを見てくれんか。」
 一瞬驚いた顔を見せたが、すぐにそう言って手紙を手渡してくる。
真之介の様子から何かあったことを察していた三太夫は無言でそれを受け取った。
「珍しく早く出かけたと思ったら、あの阿呆め…。」
 三太夫が手紙をたたみながらため息をついた。
「とりあえず、わしらも出かけるぞ。」
 三太夫が玄梧の膝を踏み台に、玄梧の肩にしがみつく。
玄梧は三太夫が落ちないように片手で支えてやるとそのまま門をくぐる。
「まずはおりんの宿じゃ。
道案内は任せておけ!」
 その言葉に玄梧は頷き、三太夫が指し示す方向に走り出した。








「遅かったじゃねえか!」
 虎屋が叫んだ。
街から少し離れた広い場所で、虎屋が岩の上に腰掛けている。
その様子を見ながら真之介は無駄と知りつつも声を上げた。
「いいかげんにしろ、こんなことをして小三郎が帰ると思ってるのか!」
 すぐ隣で小三郎が頷く。
虎屋が笑いながら岩から飛び降りた。
その手にはしっかりと愛用の鎖鎌が握られている。
「有名な話らしいぜ?
お前がいるせいでコサブが戻ってこれねえって。」
「勝手に決めるな!」
 虎屋の言葉に思わず小三郎が叫ぶ。
それでも虎屋は何も聞こうとしなかった。
「抜けよ。
無抵抗でやられるつもりはないだろ?」
 分銅をまわしながらにやにやと虎屋が笑う。
真之介は刀に手をかけたまま迷った表情を浮かべた。
正直このまま話していても埒が明かない。
可能ならば虎屋を叩き伏せ、じっくりと説得するほうが楽だろう。
しかし虎屋も相当な手練れである。
手加減したままで勝てる相手ではない。
「抜かねえなら、こっちからいくぜ?」
 そう言って虎屋が走る。
逡巡している暇は無い。
小三郎を下がらせ真之介も虎屋に向かって駆け出した。
まわしていた分銅を真之介に向かって投げつける。
とっさに横にかわした真之介を追い、虎屋も横に飛んだ。
「はっ!」
 追ってくる虎屋を狙い、抜刀する。
刀を鎖鎌の刃で受け、そのまま間合いを詰めようとする虎屋。
真之介は腰から刀の鞘を抜き放ち、踏み込んだ足を戻して間合いを調節しながら思い切り打ち付ける。
がちん、と音がして鞘が鎖に絡めとられた。
「っ!」
 とっさに鞘から手を離し、間合いを離そうと後ろへ飛ぶ。
それすらも予測していた虎屋は、続いて思い切り前へ飛んだ。
同時に回収された分銅が再び真之介めがけて投げられる。
かわすことができずに刀でそれを防ぐ真之介。
鎖がじゃらりと刀に巻きついた。
「どうした真之介、このまま負けるか?」
 そう言って虎屋が笑ってみせる。
押されるのも当然。
真之介は虎屋を静めるために戦い、虎屋は真之介を倒すために戦っている。
ためらいがある限りは真之介に勝ち目は無い。
しょうがない、といわんばかりに真之介は刀を握りなおした。
「いい加減にしろよ!」
 小三郎の声が響いた。
「こんなことして、お前が勝ったって俺は戻らねえぞ!」
 だが小三郎の言葉にも虎屋は聞く耳を持たない。
小三郎の言葉を信じていないのか、既に戦うことが目的に摩り替わっているのか。
そんな虎屋を見ながら小三郎は思い切り奥歯をかみ締めて。
「おま…っ!」
 再び文句を言おうとして、あふれる血液にさえぎられた。
真っ赤な液体が口を押さえる手の隙間からぼたぼたと音を立てて垂れる。
真之介と虎屋の動きが完全に止まった。
目を見開きじっと小三郎を見つめている。
何が起こったのかわからない、と言った顔で。
小三郎本人にとってもそれは同じらしく、呆然と自分の血に染まった手を見つめて。
ゆっくりとその場に倒れた。







「ほれ、あそこじゃ!」
 三太夫が一軒の宿を指差した。
玄梧は無言で頷くとその宿の前で足を止めた。
「悪いが、この近くに龍がいるはずじゃ。
探してつれてきてくれ。」
 そういいながら三太夫が玄梧の肩から飛び降りた。
どうして龍がいるのかわからないが、言われてみれば龍は昨日の夜からいなかった。
三太夫に協力していたということだろう。
玄梧はわかったと言い残して龍を探しに向かう。
一人になった三太夫はゆっくりと宿の中へと歩みを進めた。
宿の主人におりんの部屋を聞き、そのまま部屋へと向かう。
この界隈なら「牙武者」の名前を知らないものはいない。
三太夫も顔を知られているために、理由を話す必要も無く奥へと入ることができた。
「おりんさん、失礼するぞ。」
 そう言って三太夫は有無を言わさずに襖を開く。
襖を開いた向こうでは、おりんが出かける支度をしているところだった。
「あら…瓶木屋さん?」
 おりんが不思議そうな顔で振り向いた。
三太夫は部屋に入り襖を閉める。
こちらを見るおりんの表情に翳りは無い。
じっと真正面からその顔を見つめる。
相変わらず事態を飲み込めていないおりんの表情に嘘は無さそうに思えた。
「うちの虎屋に、何か吹き込んだかの?」
 三太夫が立ったまま口を開く。
そういわれておりんはようやく合点がいった。
「ひょっとして東間さんの…?」
 その言葉に三太夫が頷く。
先ほどからおりんには悪びれたそぶりは無い。
白を切っているのか本当に知らないのか。
「そのことで、虎屋が真之介に果たし状を送ったことは知ってるかの。」
「え…?」
 呆然としたままおりんがつぶやいた。
状況が飲み込めないといったように頭を抱えて首を振る。
「果たし状って…決闘を…?」
 混乱した様子でつぶやいている。
「お主が仕掛けたのか?」
 三太夫の言葉におりんは必死で首を振って否定する。
真偽を見定めようとその顔を凝視する三太夫。
昨日あったときと違う、真剣な眼差しにおりんは少しだけ恐怖を覚えた。
「そんなつもりでは…私は…。」
 起こっている事態におびえているのか、少しだけ声が震えている。
細かい事情を言えないのか、それとも言わないのか。
三太夫は一歩だけおりんに歩み寄った。
どたどたと廊下を走ってくる音が聞こえる。
それでも三太夫はおりんから目をそらさない。
がらりと乱暴に襖が開かれた。
「三太夫さん!」
 部屋に飛び込んできたのは龍と玄梧だった。
龍の言葉に三太夫が目だけをそちらに向ける。
「違うんです、噂の出所はおりんさんじゃありません。」
「何じゃと?」
 今度こそ、三太夫は振り向き龍を見上げていた。






「おい、しっかりしろコサブ!」
 虎屋が倒れた小三郎を抱え起こした。
真之介もすぐその後に続く。
二人とも何が起こっているのか全く理解できない。
既に焦点の合わなくなっている視線を、小三郎はゆっくりと虎屋に向けた。
何か言いたげに口を動かすが、その喉から声は出てこない。
「小三郎!」
 真之介も必死で呼びかけるが、小三郎の息はどんどん荒くなっていく。
弱々しく手が伸ばされた。
真之介はその手をしっかりと握り締めてやる。
強い風が小三郎の顔を撫でた。
「なんでコサブが…っ!」
 虎屋が混乱したように叫ぶ。
もちろん真之介にもなぜこんなことになったのかわからない。
「まてまて〜い!」
 場違いな声が聞こえた。
何事かと真之介と虎屋が顔を上げれば、玄梧とその肩にのった三太夫。
「見ろ、手遅れじゃ!」
 そういいながら三太夫が玄梧の肩から飛び降りた。
玄梧が小三郎の様子を見て慌てて駆け寄る。
「お、おい小三郎!?」
「真之介、虎屋、いくぞ!
小三郎の敵討ちじゃ!」
 そう言って今度は真之介の肩によじ登る。
落ちそうになる三太夫を真之介は慌てて支えた。
「どういうことだよ、豆狸!」
 小三郎を玄梧に奪われ不機嫌そうに虎屋が叫ぶ。
「小三郎に毒を仕込んだ輩がおるんじゃよ!
そいつの場所は突き止めた!
ついて来い!」
 三太夫に急かされて真之介が走り出す。
もちろん三太夫の言うことが本当なら急いでいかなくてはならない。
小三郎をこんな目にあわせた奴が逃げ出す前に捕まえなくてはいけないのだ。
肩から三太夫を落とさぬようにしっかりと押さえ、真之介が走る。
そのすぐ後を虎屋が続いていた。
街中に入り、三太夫の指示に従って右へ左へと曲がっていく。
「あの屋敷じゃ!」
 三太夫の声を聞いて、虎屋が飛び出した。
勢いを殺さずにそのまま思い切り門戸に体当たりをかける。
大きな音を立て、簡単に扉は吹き飛んだ。
「何事だ!」
 音を聞いて屋敷から男たちが出てくる。
それでも全くひるまずに虎屋が男たちの輪に飛び込んでいった。
いつの間にか愛用の鎖鎌を構えている。
「てめえらああああああ!」
 手近にいた男の首に鎌を叩き込む。
そのまま鎌ごと男を引き寄せ、思い切りその顔を殴りつけた。
勢いで鎌が抜け、血を撒き散らしながら男が倒れる。
それでも物足りないとばかりにその頭を思い切り蹴り上げた。
「て、てめえ!」
 ようやく状況を把握した一人が刀を抜いて切りかかってくる。
それを紙一重でかわし、切りかかってきた一人の頭に分銅を打ち付けた。
ぐしゃりと音がして男は地面に倒れこむ。
かわした刀が着物を捉えていたのか、はらりと背中がめくれ落ちる。
邪魔だといわんばかりにそれを破り捨て、虎屋は男たちを睨みつけた。
その背中には、普段見ることのできない見事な桜吹雪が舞っていた。
「こ、これ…!」
 男の一人がようやく感づいたらしい。
雲間を吹きすさぶその桜吹雪は、「牙武者」の次郎右衛門の代名詞でもあった。
「怯んでんじゃねえ!
やれ!」
 首領と思しき男が叫んだ。
虎屋と、その後ろにいた真之介たちを取り囲む。
三太夫は慌てて真之介の肩から飛び降りてその背中に隠れた。
「翁!こんな時まで尻を撫でるな!」
 刀に手をかけながら真之介が叫ぶ。
虎屋は後ろを全く気にかけず、一人で男たちに突っ込んでいった。





「うおおおお!」
 虎屋が雄叫びを上げながら手近な男をつかんで強烈な頭突きをかます。
鼻から血を流し白目を剥いた男の首を握りつぶし、そのまま別の男に叩きつける。
鬼神の如き戦いぶりに男たちが怯む。
それでも虎屋は怒りに身を任せ、手近な男を片っ端から叩き潰していた。
「こ、この野郎!」
 一人の男が意を決して切りかかってくる。
しかし今の虎屋に敵は無い。
刀を鎖で受け止めると、そのまま刀を跳ね飛ばし首筋に思い切り噛み付いた。
口の中に血があふれ、鉄の匂いが鼻をくすぐる。
咥えていた口を離し、倒れる男を思い切り蹴り飛ばす。
血をぼたぼたと垂らしながら鎖鎌を振り回す虎屋は、もはや恐怖の対象以外の何者でもなかった。





「はっ!」
 真之介が刀を抜きながら飛び掛ってくる男を斬り捨てる。
統率が取れていないのか、男たちは皆こちらに怯えている。
そのような及び腰で真之介にかなうはずも無い。
剣を受け、あるいはかわし。
真之介は男を一人ずつ確実に減らしていった。
屋敷の中から数人の男たちがさらに現れるのが見えた。
周囲にいた数人が、一気に間合いを詰めてくる。
少し下がり、刀を鞘に収め。
「一式――。」
 真之介のつぶやきと共に。
一瞬で、間合いにいた男たちの命が散った。





 男たち数人が三太夫を追いかける。
「ぬおおおお!」
 遅い足で必死に逃げ回りながら三太夫が叫ぶ。
虎屋や真之介に意識を向けている男たちの後ろを駆け抜け、のらりくらりと刀をかわしながら屋敷の中へ逃げ込む

しつこく追いかけてくる男たちが数人、三太夫を追って畳の上に上がりこむ。
「年寄りには優しくせんかい!」
 三太夫が飛び上がり、空中で振り向く。
男たちが刀を構えて全力で切りかかってくる。
慌てることなく三太夫が畳に手をつき。
「うおおお!?」
 男たちの前で畳が跳ね上がった。
飛び上がってくる畳をさけきれず、男たちはその下敷きになる。
「真之介、虎屋!
ちょっとはこっちを手伝え!」
 畳の下敷きになった男たちを思い切り踏みつけながら三太夫は再び屋敷の外に飛び出した。





 虎屋が投げた分銅を額にうけて男が一人倒れる。
後を追い、倒れた男の腹に鎖鎌の刃を叩き込む。
残り一人。
「てめえ…覚悟できてるだろうな?」
 その後ろから抜き身を携えた真之介が現れた。
息を切らした三太夫も続く。
「ちいっ!」
 男はいかにも小悪党といった風に舌打ちをすると、突然地面に何かをたたきつけた。
突然あたりを閃光が包む。
「この野郎!」
 虎屋が先ほどまで男がいた場所に分銅を投げるがまったく手ごたえはない。
閃光が収まり、真之介の影に隠れていた三太夫が顔を出した。
「逃げる気じゃ!」
 男はこちらに背を向け、塀に手をかけて思い切り飛び上がった。
「てめえら覚えてやがれ!」
 男が振り返り叫ぶ。
その顔には薄ら笑いが浮かんでいた。
既に逃げ切った気持ちでいるのだろう。
「悪い、覚える気ねえんだ。」
 突然耳元で囁かれた。
慌てて男が振り向こうとして。
「死ね。」
 その喉元に匕首が突き立てられた。
男は自分の喉下に手を伸ばそうとして、そこで糸が切れたように塀から崩れ落ちる。
塀の上には、一人小三郎だけがたたずんでいた。
 やがて視力が回復した虎屋が小三郎を見つける。
口をぱくぱくと動かしながら、何か言いたそうに三太夫を見つめた。
真之介も驚いた表情で小三郎を見上げている。
「真さん、大丈夫か!」
 門から入ってきたのだろう、後ろから玄梧と龍が駆け寄ってきた。
「どういうことだ?」
 真之介が振り返り尋ねるが、玄梧もわからないといった風に首を振るだけである。
小三郎は拗ねたように視線をそらしているだけで何も語ろうとしない。
自然、視線は一人落ち着いている三太夫に集まった。
「まあ、そのなんじゃ。」
 三太夫が言葉を濁しながらなぜか玄梧の後ろに隠れる。
さりげなく尻を撫でているが、皆三太夫を見つめるだけでなんの突っ込みもない。
「ありゃあ、ただの仮死状態じゃよ。
吐血し、全身が硬直、瞳孔が開いて一時的な仮死状態に陥る。
昔小三郎が配合を間違えたときに偶然できた毒の症状じゃ。」
 その言葉に今度は小三郎に視線が集まった。
相変わらずあさっての方向を向いたままの小三郎の頬がほんのりと赤く染まっている気がした。
「人質に捕られたときに飲めと言ってあったんじゃが…。
まあ虎屋の暴走止めるには適切な手段ではあるのう。」
 そう言って三太夫が関心したように頷いた。
その言葉に虎屋が不機嫌そうな視線を向ける。
「それって…お前、最初からわかってて騙したんじゃねえだろうな…?」
 完全に騙されていたことをようやく悟り、虎屋の怒りが三太夫に向けられた。
虎屋の怒りを肌で感じて、玄梧の後ろに完全に隠れる三太夫。
「あ、あれじゃよ。
こうして『烏天狗』の残党も捕まったしええじゃろ。な?」
 玄梧の影から少しだけ顔を出して、飛び切りの笑顔を見せた。
それでも虎屋の怒りは収まらない。
「翁…私には説明してもよかったのでは?」
 真之介が冷たい視線を向ける。
無駄に心配を掛けさせられたのだから、真之介の怒りも当然といえば当然だろう。
「いや、真之介には単に説明する時間が無かっただけでな…?」
 三太夫がしどろもどろに説明する。
玄梧が尻を撫で続けていた三太夫の襟をつかみ、虎屋と真之介の前に放り出す。
『この糞爺!』
 二人の怒声がぴったり重なった。






「本当にご迷惑をおかけしました。」
 おりんが深々と頭を下げた。
虎屋が気にするなと豪快に笑う。
そんな虎屋を真之介と小三郎が冷たく見つめていた。
結局真之介と決闘しても戻る気はないと小三郎に説き伏せられ、虎屋は決闘を諦めたらしい。
「荷物も見つけてくださって…。」
 おりんの背中には薬が入った荷物が背負われている。
「烏天狗」の残党を倒した後、怒った虎屋たちに追われているときに三太夫が見つけ出したのだ。
なぜか包帯だらけの三太夫がにこにこと笑っている。
「いやいや、こちらこそ疑ってすまんかったのう…。」
 そう言って三太夫が頭を下げた。
結局、おりんはただの噂の媒介役だったらしい。
虎屋をけしかけるため、あえておりんに聞こえるよう「烏天狗」が噂をばら撒いていたようだ。
その噂をきいておりんが虎屋に報告し、結果企み通り虎屋は動いてしまったわけである。
「完全に巻き込んでしまったな。
申し訳ない。」
 そう言って真之介も頭を下げる。
隣にいた玄梧もそれに続くように頭を下げた。
龍も頭を下げ、小三郎は相変わらずそっぽを向いている。
「いえ…悪いのは私ですから。」
 そういっておりんは微笑んで見せた。
相変わらず笑ったまま虎屋がその頭をぽんぽんと叩く。
「まあいいって。なあ?」
 虎屋が同意を求めるように振り替える。
確かにおりんを攻めるものはこの場にはいない。
しかし当の本人である虎屋に言われるのは少し納得がいかない。
「あの、小三郎さん…。」
 おりんが小三郎に歩み寄る。
袖口から小さな包みを取り出した。
不思議そうな顔をして小三郎がそれを受け取る。
「大抵の毒になら効果がある薬です。
まだ体調が悪いといけませんから…。」
 そう言っておりんはその薬を小三郎に握らせた。
小三郎はゆっくりと手を開いてそれを見つめる。
「西の大国から来た方に教わったんです。
まだあまり有名なものではありませんけど、効果はあるはずですから。」
 そう言っておりんは改めて全員に頭を下げた。
「それではこれで失礼します。
皆さん、お元気で。」
 そう言っておりんは歩き始めた。
「おう、おりんも元気でなー!」
 虎屋がぶんぶんと手を振りながら叫んだ。
おりんは振り返り笑いながら手を振り返す。
「なあ、小三郎。」
 玄梧がぼんやりとつぶやいた。
手にした薬を見つめていた小三郎が顔をあげる。
「例の噂の薬師、やっぱおりんさんだったんじゃないか?
何にでも聞く薬なんてそうそうないだろ?」
 言われて、話を聞いていた真之介がなるほどとつぶやいた。
「仮死状態になる毒と聞いて、薬が出せるわけだから。
『死人を生き返らせるほど』なんて噂もあながち嘘じゃないわけだ。」
 真之介は一人納得しながら頷いた。
「まあ西の大国から来た者の話を聞いとるなら、わしらの常識を超えてても不思議ではないのう。」
 三太夫が髭を撫でながら真之介に続いた。
「文化が違えば常識もずいぶん変わりますからね。
不思議な術と考えてもいいくらいの効果はあると思いますよ。」
 話に龍も加わってきた。
虎屋は何のことかわからないという顔をして聞いている。
まあ虎屋には難しいの、と三太夫が尻を撫でてやる。
「お、おりんさーん!」
 小三郎が突然駆け出した。
我慢が聞かなくなったのだろう。
しかし既におりんの姿はずいぶんと小さくなっている。
「話聞かせてくれええええ!」
 小三郎の叫びが響き渡った。



 空は晴れ、柔らかな風が吹く。
いつも通りの日常に皆が安堵の笑みを浮かべていた。




                                                  終

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